建て替えの理由



我が家は増築をしており、前半分は築26年、後ろ半分は35年ほどになる。
後ろ部分はやはりかなりガタが来ていたが、前半分がきれいにしていたため見た目は十分りっぱな家だった。
  うちの建て替えに関しては、台風の話を抜いては通れない。
1999年、あのときの台風はわが県でも多数の死者を出した。
我が家も瓦が飛び始め、雨漏りに悩まされ始めていた。 その日夫は家にいた。
二階には雨戸がなくサッシの間からあふれ来る雨を抑えるため、タオルを敷きに夫と私は二階の窓のところにいた。
二階には2部屋あり 別々に分かれて窓にタオルを敷き詰め、私は夫のいる部屋に入った。
その瞬間 後ろでバーンという音がした。 掃きだし窓 4枚のサッシの砕け散る音だった。
ものがあたったわけでもなくただ風圧で4枚とも割れた。
寝室にしていたその部屋のベッドには無数のガラスの破片が突き刺さり、
横殴りの雨に瞬く間に水浸しになっていく。
あと数秒その部屋にいたら、私は死者の数に加えられていたかも知れない。
この経験はこの後私に台風のたびにトラウマとなってのしかかる。

2004年9月 また大きな台風がやってくる。この年は発生数も多かった。今回は進路も最悪だ。
風が強くなるにつれ、鼓動が速くなり、気分が悪くなる。
あれ以来の症状だ。
ガラガラと瓦が飛び始める。 その日 夫は福岡にいた。かなり前から勉強していた資格試験の日だった。
私が前の日から福岡に行くように勧めていた。
当日の朝は公共交通機関は止まってしまうし、高速道路も閉鎖になるのがわかっていたから。
今回は夫がいない。 でも子供たちが成長して十分力になってくれる。
  畳を上げ、雨漏りを始めた場所にバケツ、たらい、洗面器などを置いていく。
そのほかは家族総出で拭きあげる。
瓦は 2、30枚飛んだだけで終わった。
その後、帰れなくなった夫を途中まで迎えに行く。 信号さえも消えてしまった真っ暗な国道を通って。
  前回は私の車のガラスも割れていたが、今回は無事だった。
台風がとおりすぎても、停電は2,3日続き不自由な生活を強いられる。

次の日、夫が義父母に宣言した。 『家を建て替える!』
それまで、反対し続けていた義父も今回は反対しなかった。
この日から 我が家の建て替え計画が進行することになる。


実はそれよりさかのぼる2年前、私と夫はパナホームの展示場にいた。
「展示場譲ります」のキャンペーンに応募するためだ。
もちろん抽選は外れたがこのことで家を建てるということが、具体化されてきたように思う。
その後、何回か展示場に行く機会があったが、私の希望はあくまで瓦のない家だったから選択範囲は狭まった。
「最近の家の瓦は飛びませんよ」とか言われても聞く耳を持たない。
だってうちの近くに新築の家が2件あったが(1件は大工さんの建てた軸組み工法、もう1件は有名HMの2×4)
両方とも1999年の台風で瓦が飛んだんだもん。

夫は ハイムのパルフェが好きだった。
私は友人がパルフェで建てていたが(タイルではない)何であんな不恰好な家を建てたのだろうと訝しがっていた。
なのに展示場で何度も見続けているうちに、不恰好さには慣れ、中毒化してきた。
もうこれじゃないといけない風に気持ちが変化した。 瓦も無い・・・決定だ。
さて、ハイムに決定したものの我が家には乗り越えなえればならない大きな山があった。
夫のいとこであり、200メートルほどしか離れていないご近所さんでもある大工さんの存在だ。
前出の台風の時も真っ先に飛んできて修理をしてくれる。
仮住まいをした家も私が仕事を始めるにあったって手直しもしてもらっている。
何よりも私を○○ちゃん ○○ちゃんといつもかわいがってくれていた。 もうこれは人の道に反するのではないかと悩んだ。
しかし、年の離れたこのいとこは20年先、30年先台風で瓦が飛んでも修理をしてもらうのはむりだろう。
将来のことを考えるとここで情に流されるわけには行かないという夫の言葉に納得して話しをハイムと進めた。
もちろん 内密に内密に。
結局 ハイムと契約を済ませ、ビールとお菓子を携え大工さんに挨拶に行ったのは、2005年の12月にはいってからだった。
いとこは想像に反して、「鉄骨で建てるなら仕方ないなあ」とあっさり認めてくれた。
  夫は殴られる覚悟で行っていたが肩透かしを食わされたようだった。
やっとこれで大きな声で、家を建てますと言えるようになった。